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君の愛は僕には見えない――『アドルフに告ぐ』

アドルフに告ぐ』(2015年6月10日 13:00~@KAAT 神奈川芸術劇場

 

ネタバレあります。

 

・全体を通して

様々な人物を追う形式のお話であるため、場面は国や時間を越えてくるくると変わっていくし、原作の厚みもあり、情報量を台詞に込めていた印象。

ただ、演出が抽象交じりの具象でわかりやすく情報が提示されたり、役者さんの演技の力によってそうしたハードルを越えて目の前に「人生」を突きつけられる舞台でした。


主軸は3人のアドルフのうちのアドルフ・カウフマンかなぁと思いましたが、どのアドルフも出てきた場面で自分達が(舞台上でも、お話の上でも)与えられた役割を着実に、生々しく演じていてあっという間の3時間。
私は原作読了済で観劇しましたが、省略された場面もあったので原作は前でも後でもどちらでも良いので観た方には読んでみてほしいなぁと感じました。原作漫画を読んだ上で観ると情報は整理しやすいかもしれません。でも読んでなくても全然問題ないと思います。

 

・3人のアドルフと峠草平という狂言回し

この舞台は、既に亡くなっている峠草平の追憶、というところからお話が始まります。
彼が3人のアドルフの内の1人、アドルフ・カミルの墓を参るところは同じですが漫画と違って、舞台の峠は「死者」として登場します。だからこそ、彼が多くの場面で丁寧な言葉(書き言葉に近い)で独白する形式は飲み込みやすかったかも。

 

 1人目のアドルフ、アドルフ・カウフマン(成河さん)。
子供の頃から、徹底的に「選べなかった」男。3人の中で最も「選べなかった」のではないかなぁ、と思う。
時代に振り回され、他人も振り回して死んでいった男。
最初に死にかけている父親と別離するところ。
成河さんが細かく足や口元を震わせて父と向き合う。特別子供らしい衣装というわけでもないのに、ちゃんと思春期前の少年に見える。仕草から彼は父親の死より、それまで父にされてきた事で彼を恐れているのが分かる。発作を起こした父がいよいよ危ないって時、母親と話す彼は少し解放されたようにも見えた。
カミルの顔を観た瞬間、今までの緊張がとけてぱぁっと明るくなるのが(今後の展開を知っている以上)つらい。
ランプに抱き上げられてドイツに連れて行かれる瞬間の、あの絶望した顔と少し漏れた声は忘れられないと思う。
カウフマンは、ドイツでカミルの父を殺すように命じられ、段々とその環境に合わせて人格(アイデンティティ)を作り上げられていく。
でも、ヒットラーに気に入られたところで相手は既に狂っているから確立してたアイデンティティすら揺らぎっぱなし。
潜水艦で危険な旅をし、日本に戻る場面。
幾つかきつい場面はあったけど、ここが一番恐ろしかった。
ユダヤ人の象徴のような少女が、赤いスカーフを持って歌いながらカウフマンを追い詰める。
自分が殺してきた人々の代表のような存在に悲鳴を上げて「出してくれ!」と叫ぶあのもう限界、という声と顔、今まで見たことがない種類の恐さだった。
ドイツで得たアイデンティティは揺らぎ、あとがないカウフマン。

かつての自分の居場所も揺らいでいく。
母の再婚、初恋の人は親友と婚約。だからこそ仕事にしがみつく。機密書類の証拠だけが彼の失われそうな自己で縋れるものだから。もちろん、かと言って彼がやったことが仕方のないことと言い切れるわけではない。
でも、子供の頃からずっと選べなかった男が今までの所業ぜんぶが無駄だった、ということが分かり
「アドルフ・カウフマンは道化でござい!」
と自分自身を嘲る場面は見ていられない痛々しさがあった。


成河さんのカウフマンは絶望的な状況でもよく笑う。
笑っているのに、心情は笑ってない。そんな表現を幾つものパターンで見せてくれて、圧倒されっぱなしだった。
笑いにこんなに種類があるんだ、と驚いた。

 

 2人目のアドルフ。アドルフ・カミル(松下洸平さん)。
神戸で生まれて神戸で育ったやんちゃな子。商売をしてる家で育った子ならではの人当たり良く親切で、でもテキパキと状況に適応していくはしっこさ。原作よりも穏やかで温かい人、という面が強調された人間だった。これは松下さんが演じた、というところも大きい気がする。
宗教という割りと揺らぎにくい倫理を内面化しているので行動の原理もわかりやすい。それまで冗談めかして軽やかにしていたのに「神に誓って」と口にする時はふっと真剣に言う切り替え方が素晴らしかった。
というか、全般的に松下さんの演技は話しているうちに感情が言葉に追いついていって最後に爆発する、というところの凄みがあって、それが全面に出るのがカウフマンとの二度の決闘だったと思う。
一度目、それまでカウフマンがしばしば出していた自分達民族への侮蔑を真っ向からぶつけられ、婚約者を乱暴され、信念を否定されるシーン。
防空壕の中でも住民や同胞からカウフマンを庇っていたが(憤りかける他の住民に「だいじょうぶや」と小さく言い聞かせてたり細かいとこも良かった)、怒りを爆発させ彼にナイフを向ける。
ここの格闘はお互い相手を本気で殺そうとしている、という意志が出てた。
二度目、最後の決闘。
カウフマンが父を殺していたこと、それを隠して自分達と会っていたことを知り、話す内に吐き捨てるように怒りをぶつける。

軽蔑と殺意の果てに、彼は親友を殺し「あの世で俺の家族に謝ってこい」と告げ、舞台後方に座り込み背中だけを見せる。カミル的には、カウフマンは彼の家族と会えると考えてたのかな、と今回はじめてハッとした。親友は天国に行けると思っていたんだろうか。
後日、ユダヤ教に死後の世界や転生という概念は無い、という意見を目にしてまた原作を思い浮かべた。
原作ラストのカミルは「あの世でおれのパパに謝ってこい。また来世で会おう」と言う。
ハードカバー版3巻で小城先生と本多サチの墓に行くカミルのシーン。
「極楽やなんや言うたかて人間死んだらおしまいや」
「エホバの教えは『汝殺すなかれ』とか生き方をはっきり教えてます。俺たちユダヤ人には生き延びることが心情です」と言う。
この時カミルは仏教は嫌い、とも言ってるが、のちに彼が口にする来世や死語の世界ってどっちかというと仏教っぽい考え方だと思う。
もにのちゃんが書いてた、戒律を破ってエリザと結婚したのかどうかって話とも繋がるけど、よく考えれば既にカミルは「汝殺すなかれ」という戒律を自分で破っているんじゃ……。
(付記:自分達の国のために敵である異教徒を殺すことは、教義に反しない。という意見があってよりつらくなった。
国を持たなかった彼らが国を持ったらそれを守るために、それまで自分達がされていたことをやる側になっちゃう皮肉)

カミルが教えを捨てたわけではないだろうが宗教に対する考えはどこかで変わったのかもしれない。
あと、原作だと「パパに謝ってこい」だったのが「家族に」になってたのは、エリザと結婚して家族になったってことなんだろうか。(その辺は舞台でも原作でもぼかされてた)
いかにもお商売をしてる家(うち)の子ぉ、という関西弁で難しかったと思うのに松下さん、すごく上手に喋っていた。

 

 3人目のアドルフ、アドルフ・ヒットラー(髙橋洋さん)。
髙橋さんのヒットラーが舞台に登場して、民衆への演説をし始めたところで一気に「あ、空気が変わった」と思った。
空恐ろしい迫力、多くを巻き込んでいく力、そして現実に生きてるのに一瞬で自分の世界に入ってしまう狂気。
目だけがぎらぎらして、体の内側からパワーを吐き出して、場を変えちゃう。そして色っぽい。
見た目がヒットラーにすごく似ている、というわけじゃないのに、そこにいる高橋さんは確かにヒットラーだった。
別荘でエヴァと戯れたり、かと思えば首に手をかけて「君がいなければ生きていけない」というような脅しのようなことを言ったり、カウフマンを抱き寄せてにっこり笑っていたかと思えば部下がカメラを二度目に向けた時、一瞬ふっとキレそうな顔になるあの沸点が全然わからない感じ、すごく怖い。
それでも退場していく彼はやっぱり哀しい。
それまでの強い語調は鳴りを潜め、エヴァに対して今まで以上に子供のように全肯定を求める、あのアンバランスさ。
望んでいた死は得られず、絶望した次の瞬間に死ぬ。
暗殺未遂直後、誰も信じてないとぶつぶつと口にしてそれまでとぜんぜん違う態度にぱっと切り替えていく、もうこの人だめだ……って感じ、ある意味カウフマンと同じように道化として描かれてたのかもしれない。

 

観客に語りかけることが最も多い狂言回し、峠草平(鶴見辰吾さん)。
彼がベルリンで出くわした弟の衝撃的な死や、ローザ(ランプの娘)を乱暴したことは省略される。正直、それまでも描かれてたらいよいよ救いがなかったなと思う。
彼の加害者の側面は薄くなり、観客としては寄り添いやすい語り手になっていたと思う。
運命のままいろんな場所に行き着くが、環境に適応できる力強さ、何が何でも生き抜くという意志の強さを感じた。
義理の息子になったカウフマンと格闘するシーン、キン肉マンか?と思っちゃうような担ぎ上げ方していて衝撃。
(それまで峠が痛めつけられる格闘が多かったため、こんなに強いの…というびっくりもあり)
空襲で耳が聞こえなくなった、と彼が語り明かす時、その時声がいきなり掠れ、調子がそれまでと変わるのは自分の声が聞こえないことを表してるのかな、と思った。
由季江と再会したところの信用できそうな笑顔や、空襲の時すっと彼女を庇って頭を触ったり、ベッドにいる彼女の頬に手を当てて去っていく行動で安心感を与えてくれる。背中に文字を書いてもらい、妻から妊娠を打ち明けられる時の心から喜んでる様子とか。
鶴見さんは相手の演技を「受ける」時すごく安定した感じで(直接自分に話しかけられてない時の表情とか)、そこが特に好きだなと思う。あと、語り手なので独白→会話→独白、とかなり切り替えや視点の誘導が多い役で、大変だろうなぁと思った。
もう居ない人が、もう終わってしまった起きてしまったことを淡々と語り、静かに鮮やかに観客に気持ちを残していく。
この舞台が川の流れだとしたらそこに浮かんでる舟みたいな演技だった。

 

以下、思ったことを幾つか並べます。記憶違いもあるかも。

・幕開け、ピアノとヴィオラの音色が鳴って響く靴の音がリズムを刻む。
髪を刈られてダビデの星をコートにつけられた少年とも少女ともしれない人(パンフを見たら「少女」とあったので少女と以下表記)が軍隊の行進のような歩き方(でも引きつってる)でかっちり舞台を横切る。「アドルフに告ぐ」はこうして始まる。


・漫画と同じようにアドルフカミルの墓の前に峠草平が佇んでる。この舞台でも彼は語り手で、漫画と違うのは彼はもう既に死んだ存在、別の空間から誰かに語りかけているというところ。
峠が3人のアドルフの行く末を簡単に話すので、観客は彼等がどんな運命を辿るのか最初から分かった状態でこれからの出来事を覗くことになる。舞台の上に次々と登場人物が影のように現れて歌をうたう。
この人達は、みんな既にこの世には居なくて、物語は既に終わったんだろうなとこの時思った。すべてが終わったところからお話は始まる。

・長大な原作をどうやって3時間におさめるんだろう?と観る前は思ってたんだけど、お話は結構大胆に場面を省略して進む。補完的に原作読んでみて欲しい、と思うのはこの点かも。

・少年カウフマンは勇気をふるって毅然とした態度で大人に意思を伝えても、綿菓子を嬉しそうに頬張る年齢でドイツに連れて行かれる。最初の痛々しい場面、演出含めてすごく好き。

アセチレン・ランプはカウフマンが出会う様々な理不尽な現実の一つだった。
カウフマンから取った綿菓子を一口齧って胸ポケットに仕舞う仕草、うわ悪役だ…って感じで好き。友達であるカミルを憎みたくない、そんな素朴な心でカウフマンは入学を拒む。ランプが交換条件にした、ヒットラーの秘密を知った者の情報もカミルとの約束のため拒み、カウフマンは担ぎ上げられ連れて行かれる。
この時の表情、恐くて声があんまり出ない様子、すごく子供のそれでもう成河さんの演技の説得力にやられっぱなしになる。

・エリザにカウフマンが抱きつくところ、エリザが嫌そうな顔は浮かべないけど全身に緊張が走ってて気持ちは相手に無いのがちゃんと伝わってきた。乱暴されるシーン自体は無いんだけど、着衣が乱れて呆然と歩く様子で何があったか分かる省略具合で、逆に痛々しさが増していた。

・1幕目の最後、レストランで楽士の2人(ここだけは演奏を担当されてたヴィオラ・ピアノの方がそのまま役として提示されてて、舞台に上がっているものは全部装置・演出として含められてる感じで好きだった)が演奏するのに合わせて、峠と由季江がチークダンスを踊り、次に色んな男女(カミル&エリザ、三重子&芳男、ヒットラーエヴァ)が登場し、それぞれ踊る場面。
ここほんと数少ない癒やしで、それぞれの人達がそれぞれに合ったダンスを踊っててすごく素敵。姿勢とか戯れ方に年齢・属性・国籍の違いが出てた。特に三重子と芳男は、もうその場では退場している2人で、だからこそ「あったかもしれない時間」の切なさがあって、良かった…。
そしてその中にはカウフマンは居ない、軍服を着て冷たい顔で1人彼等の間を抜け、「少女」を1発の弾丸で殺し去って行く。初めて人を殺した時は3発使っていたのに、あっという間に変わっていってしまったのが分かり、場が凍りついた。
「少女」が「あなたの足元に埋まった骨を忘れないで下さい」と言い残すの、後の潜水艦シーンにつながる。

・拷問担当、赤羽警部、後半のお狂いになった様子(特にタバコの火をじゅってとこ)まじでもうやめて…となる。アクション場面全体、痛めつけられる側の演技が凄まじいので本当に当ててはいないのに本当に痛そうだ…。結構危ないアクションも多いから大楽日まで怪我がありませんように。

・芳男がパラソル持ってきたりお好み焼きを渡して三重子さんと2人で食べるシーン、本当に初々しい恋の場面なのにあっという間に失われちゃうのが切ない…。三重子さんに対して父親のような感情抱いてた峠が「きっとまた(大事な人が)見つかる」って言い切るとこ、峠って人は本当に意思強いね…ってシーン。

・本多大佐の「由季江さん、まことに失礼する」と言って口付けするシーン、原作の中でも好きだったやつなので無かったのちょっと残念だけど、代わりに峠に「お元気で」と言われてふっと笑う場面があって、あぁ~…となった。ああいう細かいところで人物像説明すんの好き。

・成河さん、電話かけたり独白したり誰かその場に居ない人に語りかけるとこ、特に良すぎた。時々唇の色が真っ青で心配になるレベル。

・舞台装置によく布が使われてて、砂漠を表したり粛清シーンで影の演出に使われてたり、ヒットラーが死ぬ場面で床にでかいナチスの旗が敷かれていたり目に鮮やかなものばかり。

・音楽が全体的に説得力を増すものばかり。ヴィオラとピアノだけなのにこんなに色んな使い方あるんだな…と感動した。時々、人の声にも思える響きを出してた。神奈川芸術劇場の音響もすんごい良い。

 

・ラスト、2人のアドルフのうち1人が倒れ、1人は背中を向けたまま、最初の場面と同じく少女が行進してくる。
ここで彼女の格好がパレスチナにあわせたものになってたので、あの子はユダヤ人全体の象徴で、一個人ではないのかな…と思った。
少女役の小此木まりさんの歌声はいつも切実で、ずっと張り詰めていて、凄味としか書けないものを伝えてくる。
最初と同じく、舞台にそれまでの人物が出てきて一緒に歌い、峠が最初をなぞるように語る。
でも最後は「アドルフの子」という言葉が突然出てくる。
少女も「わたしはアドルフの子」と語る。
全部が終わり、幕が下りる頃、ヘリコプターの爆音が客席の後方に向かって去っていく。
ここで今まで目撃者だった観客にもあなた方も現実に居る以上、当事者なんだよ、と示された気持ちになって胸が苦しくていっぱいになった。

・カーテンコール、みんな真剣な顔でお辞儀していた。
成河さんはちょっと緩んだ表情をやっと見せてくれて、口の形が「ありがとうございました」と何度も言っててすげーそういう感じ、もう好きだ…。松下くんは仕草(手を軽く握りながら合わせて感謝を示す感じ)でお礼を言ってて、こちらこそありがとう…という気持ちになって帰りました。

・カウフマンが撒くビラの1枚がすぐ近くに落ちてきたので、終演後拾って舞台上に戻したんだけど、日本語+手書きで書かれてたよ。

・ラストが原作と変わってる、という意見は後で知ったのだけどカミルとカウフマンの最後の決闘についてちょっと書き足し。
私は上手よりの席だったのでカミルのほうが近い位置に居たためか、2人が左右に分かれて撃ち合った後、窪みに隠れて体勢を整えるシーンは結構カミルを見てたと思う。
この時にカウフマンが話しながら弾倉を外して、入れ替えようとしてるのかなって仕草をするのが見えた。
その後にまた銃を向け合った時、カミルは撃つけどカウフマンは引き金に指をかけるけど明らかに引いてない様に見えた。
カウフマンが死に、カミルは撃たれなかったことに驚いた顔をして、カウフマンの銃を拾う。
観終わった後、他の方の話を聞くと、この時にカミルが「お前…」という顔をして倒れたカウフマンの顔を見るのは、拾った銃に弾倉が入ってないことが分かったから(=カウフマンは弾倉を抜いていた・ぎりぎりのところで撃たない方を選んだ)ということが分かり、愕然とした。

すごく細かくも大事な演技を見逃してしまったのかな……と悲しくもあり悔しくもあった。


 カウフマンが殺さないことを選択したことが示されることで、考えれば考えるほどよりきつい…(でもそれが嫌というわけじゃない…)って気持ちになる。
HPでも手塚治虫の言葉「これは本当は恋愛物じゃないかと思うんです」、が引用されていたけど、カミルに対するカウフマンの選択は愛だったんだろうか(恋愛、という意味よりももう少し広い意味での愛かもしれない)。

 舞台版だと、カウフマンの妻子が戦闘に巻き込まれて亡くなる描写は削除されているので、カウフマン側の、カミルを積極的に殺したいという意思は確かに弱くなっているのだろうけど、原作では最後まで憎みあって、分かり合えないまま終わる2人が、舞台では片方の愛はすべてがおしまいになるまで相手に見えないで終わるから、余計にきつい。

 

・私が観た時、ヒットラーとカウフマンが顔を合わせる場面で、成河さんか髙橋さんの衣装からペンが落ちた。その時、髙橋さんが演技続けながらさり気なくそれを拾って「これはなんだね?」と訊き、成河さんが「お持ちします」って返してペンを回収し、事なきを得た場面があって、こういう不測の事態にさらりと対応するのが観られるの、舞台ならではだなぁと思って興奮しました。

 

・以前、役者には「現れる」のが上手い人、「立ち去る」のが上手い人、「そこに居ること」が上手い人がいるんじゃないかと書いたことがあるんだけど松下さんは「居ること」が、鶴見さんは「立ち去る」のが、成河さんと高橋さんは「現れる」のが上手だなと思った。