演劇事始

演劇や映画や、みたものの話

私たちはどうして演劇を観るのか

2016年、「ラディアント・ベイビー」「BENT」という非常に忘れがたい舞台を観た。その後考えたこと。

どちらも、観てみて思ったのはどうして演劇を観に行くのかって、多分知ってるけれどなかなか覗き込めない他者の在り方であったり、そこにある綿で包まれてない感情のやり取りを目撃したいと望んでいるからなんだなってこと。ある意味野次馬精神の発露だ。

私たちは、人と人が愛し合うことがあると知っている。
自分が当事者ではなくてもたまには他の人のそれに触れることがある。
でも、現実では他者と他者には距離がある。じぃっと見ることは失礼に当たる。
お芝居や映画では私たちは心置きなく人と人との営みをじぃっと観ることができる。

スクリーンや舞台上で繰り広げられる感情のやり取りは、作り手が「どう観せようか」と考えてそこに提示されたものだ。
テーマはありふれていたって良い。テーマになるような大事なことはそれほど多くないからだ。だからこそ、作る側は「どう伝えるか」「どう感じさせるか」に焦点を当てて本番の幕が開く。

私たちは、舞台の上でときにカラフルな照明や、ときに音楽の力や、ときに演者の訓練された表現によって、ありふれているテーマがひとの頭を通してどう翻訳されるかを目撃することが出来る。

家に居ても勝手に情報が入ってくる世で、わざわざチケットを取ってわざわざ交通機関を使ってわざわざ時間を割いてそれを観る。

わざわざ、ということ。自分が選んで観たいと思ったものを観ることが出来るということ。そして観て良かったと思えたり、ひどくつまらないと思えるということ。
虚構の人間たちだからこそ、思い切り感情を投影して、ひどく不躾な目線を送り、彼ら彼女ら他人の人生について考えるということ。それは劇場に行かないと出来ない。

他人の頭の中は絶対に覗き込めない。
ただ外に出された断片だけが手がかりで、芝居だってその断片のひとつでしかない。でもその断片には雲母のきらきらした反射や、黒曜石のようなぐっと深い暗さや、石英のちかちかした光のようなものが込められていて、芝居を観ている間だけは指先で触ることができる。

演者が終演後、また現実の人となって私たちの前で挨拶をする。すると幕が下りて、指先に触れていたものは途端に自分達の頭の中だけにしか存在しなくなる。作り手の頭の中にあった断片が、今度は私たちの頭の中の断片になる。こんな遠回りで効率的とは程遠くて不確かなコミュニケ―ションは他にない。

でもそんな不確かなコミュニケーション、ただ芝居を観るだけのことをどうしたって愛さずにはいられない。すごく不思議だなと思う。