演劇事始

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愛されなかった子の行く末――『リチャード三世』

最高だった…まさかほぼオールメールバーレスクが観られるなんて…。

(あらすじ)
言葉を巧みに操るグロスター公(佐々木蔵之介)が腹心のバッキンガム公(山中崇)らと組んで王位継承権のある者・自分が王座に就くのを邪魔する者をどんどん排除していき、王になるが、やがて反旗を翻され滅びていく。

佐々木蔵之介演じるグロスター公は最初ある切っ掛けから「権利欲に取り憑かれた残忍冷酷なグロスター公」を演じ始めるような演出がなされる。様々な人間を蠱惑的に誘惑する彼が最も熱心に愛するのは玉座

突飛な演出の様で、グロスター公ことリチャード三世が本音を漏らすシーンではほとんど衣装を身につけていない(黒レザーのパンツのみ)(服を着る=役割を演じている、嘘を纏っている)など、明確な意図が見えやすい舞台だったと思う。バッキンガム公との関係の解釈が悪党同士の蜜月になってたのも好き。

主役の佐々木蔵之介さんのリチャードは子供が権力を握ったらどうなっていくか、というアプローチですっごく魅力的で、反面「子供を演じてる孤独な大人」の様に見える瞬間もあるのが多層的。誰もが仰るだろう、今井朋彦さんのマーガレットの鮮烈さと冴え冴えとした恐ろしさ。呪いを振りまく、とはこの事。
ラジオでの聞きかじりの知識なので間違ってるかもしれないけど、プロレスが上手い人は箒ともプロレスが出来る、という例えがあって、佐々木蔵之介のリチャード三世は椅子と愛を交わせるんですよね・・・・・・。


私が唯一観た他のリチャード三世は2012年新国立劇場で上演された「リチャード三世」で、岡本健一さんがリチャードを演じていたんだけど割とキャラクターはリアル寄り・ところどころ戯画的な演出があったことを思い出す(子役は出ないため、2人の王子はマペットで表されるなど)。その時もリチャードは権力を手にしてしまった子供、という色が強く、あれほど望んでいた王冠は明らかにボール紙で出来たオモチャのような金ぴかの王冠で、権力の座に登りつめても岡本リチャードはちっとも幸福そうじゃなく不機嫌さを隠さなくなりどんどん子供じみていく。

岡本リチャードは基本的に人を騙すときは陽気で人なつこい笑顔ばかり浮かべるんだけど、母親に出生を呪われたときだけあからさまに「面倒くせぇな・・・・・・」と一瞬感情を露わにする。岡本リチャードが自己愛の肥大した子供なら佐々木蔵之介のリチャードには自己愛すら無い(抱けない)子供に見えた。

佐々木リチャードも権力の座に登りつめた瞬間は玉座を愛撫してみせたように一瞬幸せの絶頂までいくんだけど後はずっとちっとも楽しそうじゃない。生きることの象徴である食事シーンでも、本当にただ餌としてシチューのようなものを貪り、ガソリンとして酒を飲む。彼自身が自分を愛していない。自分を愛せず、誰かに愛を向けてもすぐにそれを踏みにじってきた男は一時の後悔の後、最後まで与えられた暴力で悪ふざけをして去っていく。男性達の退廃的で猥雑でフェティシズムの詰まった悪ふざけをただ一人だけ外側で観ているのが唯一の女性が演じる「代書人」。この世で真実を言うのはこの道化だけ。
作者の格好をした代書人はどの場面でも宴や狂乱や殺戮の「外側」にいて場を見つめリチャードに「道化の役」を授ける。ヘイスティングズへの判決文を清書しリチャードが彼の罪をでっち上げた事を知っている。構造を知る彼はあからさまな悪が見過ごされる事を嘆きその手には判決文という名の台本を握る。リチャードが無理のある策略や誘惑を成し遂げるのはあくまで、それが歴史の中で彼に「与えられた役割」だからできるのだ、という俯瞰した視点を代書人が担保している気がした。劇中どれだけ派手な饗宴や凄惨な殺戮シーンがあっても、この「外側」からの視点があるからどこか淡々とした空気もあった。


「リチャード三世」で描かれる「悪」は、男達の内輪受けの中にあった。この描写が今になってぐさぐさ胸を刺してくる。

冒頭のリチャードの独白
(有名な『今や我らが不満の冬は去り、ヨークの太陽が輝かしい夏をもたらした』のくだり)、これまで観客と主役の秘密の共有・悪役としての意思表明のシーンとして描かれてきたものだけど、今回の芸術劇場版リチャード三世では、独白では無く内輪受けの悪ふざけの笑いの中にある。

内輪に受ける、内輪で笑いを取る、内輪で認められるために何かが踏みにじられ嗤われる。あそこにあった悪は最も卑近な形をした悪で、だからこそ恐ろしい。
最初から「悪ふざけ」として悪が始まり、最後まで「悪ふざけ」は続くわけですが、有名な亡霊達に罵られ呪われる悪夢のシーンですら、亡霊達はリチャードの死を笑い嘲り、その中には想いを交わした相手だっているんだけど、それすら全部、「悪ふざけ」の中に消えていく様が悪辣で、だからこそ切ない。

劇中の暴力描写でどれも日常よく知っている道具が淡々と使われるのもまた、想像できるからこその恐ろしさがあった。誇張された表現の中に物凄く身近な暴力が潜んでる構図があったからこそ、頭に焼き付くし忘れられない舞台になったよ……

芸術劇場でプルカレーテ氏演出の「リチャード三世」を観た時、最も惹きつけられた要素は何だろうとしばらく考えていた。多分それは、権力を巡る史劇だったものがひとりの男の内面に潜んでいるものを引きずり出すようなお話へと変化していたことかもしれない。ここは明確に好き嫌いが分かれる点でもある。

メゾやマクロな範囲の話(その中には主役のリチャードと観客の秘密の共有=悪党としての独白も含まれる)を、あくまでミクロな物語としてアプローチする試みって、一歩間違えると問題を矮小化してしまったり、元々あったお話の広がりを消してしまうことにも繋がるけど私は今回の試みは好きだった。
これまでのリチャード三世は戦乱の世が平和になり居場所を追われると感じた人が自分の意志で悪党になるというイメージだったのが、今回は機能不全な家族の中で自尊心を育てられなかった人が、周囲から与えられたイメージをなぞる様に悪党であり道化を演じる、という受動的な印象で、そこがこれまでより幼さを感じさせるなと思いました。自尊心が低いと他者からの評価を取りこぼす、という描写が自分にも覚えがあって辛かった……。
リチャードは最初に道化の扮装を受け取り、最後も差し出された役割を引き受けておわった様に見えてそこも哀しい。観客は彼とバッキンガム公との一連の感情の交差を見届けてきただけに余計切ない。じゃあどうしていれば良かったんだろう…と考え込んじゃう。


多分意図的にマーガレットの存在感を増しているし、彼女の予言が操り糸のように登場人物を動かしていく見せ方をしていたと思う。ト書きで「死んだ」だけで処理されるところを丁寧に淡々と処刑シーンとして見せるのもその一環のよう。

誰かが死ぬ度に彼らはマーガレットの予言を思い出し、その通りであったことを呪う。マーガレットは軽やかにステップを踏み、死者達を見送る。中嶋朋子さんの演じていたマーガレットもドライフラワーの花束を握りしめていて壮絶に呪いを振りまいていたけど、今井さんのマーガレットは常に優雅に佇む。予言から逃れかけていたのに、近付くなと言われた相手と関係を断ち切れず、悲しみで心を引き裂かれる事になったバッキンガム公……彼女の呪いが降りかかったことを思い知った後、自分を処刑台に送った相手に手を握られるバッキンガム公……。因みにカットされた台詞にあるけど彼の処刑は万霊節の日。上演ではカットされた部分だけど、処刑前のバッキンガム公は万人の霊魂を慰める日が自分の肉体の破滅する日だ、神は悪人の手にする剣先を持ち主の胸元にお向けになる、と語る。

自分で自分を哀れむことがない、自身を愛することのないリチャード三世。忠誠心や愛情をいくら注がれても自尊心という器に穴があいていてはどんどんこぼれ落ちていく。愛されたことが蓄積していかない。その様子が本当に哀しかった。

リチャードが杖をついていたりコルセットをはめていたり首にギプスをはめてたり腹や背に詰め物をしていたりと風体が一定ではないのはどうしてかな、と考えていて、この劇自体がリチャードの内面に深く潜り込むものだとしたらあれらの衣装は彼が自分自身を歪な存在だと見なしてるって表現な気がしてきた

つまり男性版「イグアナの娘」=リチャードなのかな、と思う。あなたはちっとも醜くないんだよ、と周りから指摘されても耳に入らないグロスター公……
リチャードの何が辛いって自分に向けられた愛情に自覚的だったのに自分でそれを台無しにして、そしてもうその愛情は二度と取り戻せないと気がついているところだった。