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安全な場所から傷を眺めるということ(「フランケンシュタイン」「橋からの眺め」「善き人」について)

この記事は「ナショナル・シアター・ライブ(NTLive)10周年企画アドベント」の18日目の記事です。

アドベントカレンダー(記事一覧)は以下リンクからどうぞ。
素晴らしい体験の数々が読めます!
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初めまして、Lilyと申します。
演劇や映画が好きでよく劇場や映画館に足を運んでいます。
今回、演劇を映像化し映画館で観る企画である「ナショナル・シアター・ライブ(以下NTLive)」が日本に上陸して10周年ということで、アドベントカレンダー企画(12月1日~25日まで記事を順番にWebに公開していくリレー企画)を実施しました。

元々は、はとさんが企画している「ぽっぽアドベント」というアドベントカレンダー企画が先にあり、その試みを大いに参考にし、「NTLiveとの思い出」と言うテーマで皆さんに記事を書いて頂いています。
ぽっぽアドベントは今年も開催されており、今回は「NEW WORLD」というテーマで有志が記事を公開しています。
こちらも是非ご覧下さい。
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※これからNTLive「フランケンシュタイン」「橋からの眺め」「善き人」の内容についても書きます。
年末年始のアンコール企画で「フランケンシュタイン」「善き人」を観る予定の方は特に注意!

prtimes.jp

NTLiveとの出会い

私の初めてのNTLiveは、2014年の「フランケンシュタイン」(ベネディクト・カンバーバッチが怪物版)だった。
脳の普段使わない部分が刺激され、何とも言えない感情が浮かんでは、また違う感情がおそってくる凄まじい舞台だったのを覚えている。

序盤、怪物が陸に上がった魚みたいな動きや、産まれたての馬みたいな動きを繰り返して二足歩行できるようにいたるシーンがあり、そこの身体制御力がすごかった。時々手の関節が逆に曲がっていたり。
「リハビリしている患者をみて研究した」という冒頭の役者インタビューを思い出した。
体を再教育、というより自分の体がどうなってるかを動かしながら確認してる、生まれたての怪物。

寝転がってる怪物のもとに、フランケンシュタイン博士がやってくる。
生みの親の博士は、いきなり怪物を拒絶。
マントを投げつけて、「そこを動くな」と言い捨てて逃げてしまう。

その後、博士から拒絶されて町の方に逃れる怪物が蒸気機関車に出くわし、その蒸気機関車が工場?に、その後、繁華街の人々に変化していく場面が特に映画的でゾクゾクした。

フランケンシュタインは、神と人の関係性や科学技術と科学者との関係やら色々なテーマが含まれていると思う。
私は、その存在自体が不条理な親と子の物語だなと思いながら観た。
子供側からすると、「自分の意思とは無関係にこの世に放り出された」不条理さがあるし、親側からすると「自分のコントロール下に居てくれない」不条理さが親子関係には含まれるなぁと考え、そういう風に解釈して鑑賞した。

怪物が外界の刺激を受けてどんどん育っていくのと対照的に、殻に閉じこもって他者と分かり合えない博士が描かれたり、「愛」を語った怪物から花嫁を奪って殺したり、2つの異なる魂のお話かなあと思ってみてたら、ラストの展開で「いや、この2人は似てるんだな」と、思い直した。

怪物は「自分が受けた仕打ちしか返せない、生まれながらの異物」。
博士は「愛情を受けても返せない、家族の中の異物」(博士もある意味で怪物)。
社会の中で異物にされている(そういえば、differentって単語が良く使われていた)同士が、主人と奴隷の関係、生み出した側と生み出された側の関係をときに逆転させながら、最後まで離れられない。
お互いに向き合い続ける限り、あの2人は逃避行を続けるんだろうと思った。

怪物という人間ではない存在を主軸に置くことで、人間ってそもそも何なんだろうか?って事を投げつけられた気がする体験だった。

次に、特に印象に残った2作品について触れたい。
「橋からの眺め」と、「善き人」である。

「橋からの眺め」について。

(あらすじ)

シシリア系の違法移民である従兄弟家族を受け入れた主人公だが、溺愛する姪がその違法移民の一人と恋に落ちたことから悲劇が起こる・・・。
(NTLiveホームページから引用:橋からの眺め | ntlivejapan

主演のマーク・ストロングの大袈裟じゃないけど的確な表現力がすさまじい作品だった。
アーサー・ミラー原作ということで救いはない話なんだろうなと思って行ったら、やっぱり救いはなかった思い出がある。

舞台はほぼ正方形でガラスのような素材で囲まれており、プロレスのリングのような、水槽のような感じに見えた。

主人公のエディの哀れで恐ろしい点は、不適切な養育をする親がそういう傾向を持つと言われているように、本人は「これが相手のためなのだから正しい」と信じてやまないところだ。

エディは本当に心から悪気なく、周りを抑圧する。
だが、マーク・ストロング独特の思慮深さのある佇まいもあって(常に何かは考えてそうに見える)、このエディという人が特に直情的というわけでもなく、特に愚かしい人でもないであろうということが余計にお話の業の深さを感じさせていた。
あと、ホモソーシャルの息苦しい部分も描かれていたように思う。他の役者さんもすごく良かった。

「橋からの眺め」は、出来事だけをとりだせば1人の男の破滅話で悲劇だ。
だが、劇の始まりで弁護士が言うように
『シシリア系移民の社会ではアル・カポネは「偉大な男」であり、血縁でつながる場での「正義」が重視されている』
ということを絡めると興味深い。
弁護士が体現する「(アメリカの)法律」と、移民社会のその正義が重ならないことはある。
ではその矛盾はどうなるか?という話にも思える。

入国方法が違法である場合、移民局に通報することは法律的には問題はない。
だが、身内を裏切った者は移民社会で存在をゆるされないということは、冒頭ではっきりエディやベアトリスが説明している。
それは法律とは別の、厳格なルールだ。

だからエディはマルコに皆の前で裏切り者と呼ばれたら引くことはできない。
引けば、あの社会で生きていけなくなるからだ。
身の安全を優先して逃げることは合理的な判断かもしれないが、そちらを選べばもうその場所にはいられない。

カトリシズムに内在してる家父長制主義が強いシシリアの社会では、男性性が重視されていて、「男らしくない」ロドルフォは「ain't wright」と評されるし、カトリックの考えから同性愛者は軽蔑の対象となる。

また、キャサリンがエディに同情し「結婚相手を受け止めてない、相手の変化に気がつかない」彼の妻ビアトリスを批判するシーンも興味深い。あそこで、エディを見るまなざしに新しい見方が提示されていたように思う。

まとめると、「橋からの眺め」は、家父長制やマチズモ、ホモソーシャルな社会自体が、人と人との関係を終わらせ、崩壊させていく話であり、自覚のない加害性が最も暴力的であること、そして法律とは別の社会の「法」に背いたらどうなるか、を描いた話だった。

自覚のない加害性ということで思い出すのはもう1つ、私の印象に残った作品「善き人」である。
次はその作品について書きたい。

「善き人」について

私はAmazonプライムで配信されている「グッドオーメンズ」(2023年12月18日現在、シーズン2まで配信中)というドラマが好きだ。
主演はマイケル・シーンデイヴィッド・テナント
そのデイヴィッド・テナントの主演作がNTLiveにやってくると聞いて、劇場に駆けつけた。

そして観たのが「善き人」である。

(あらすじ)
世界が第二次世界大戦に直面する中、善良で知的なドイツ人教授ジョン・ハルダーは平和な暮らしをしていた。ナチスが台頭し、彼の安楽死についての論文を読んだヒトラーが彼を気に入ると、ハルダーもナチスの一員として働くようになる。彼の取り巻く環境は変化していき、昔からの友人の力にさえなれなくなるような状態に追い詰められ・・・。
(NTLiveホームページから引用:善き人 | ntlivejapan |good| C・P・テイラー| NTLive |ドミニク・クック|デヴィッド・テナント|ヒトラー|ナチス

ものすごくしんどく、身につまされる作品だった。

主人公のジョンがどんどんナチスに染まっていくのに「今はそういう社会だから」と自己弁護するのが本当にリアルだった。

自分や周りの人にとって「快適」と思うものを選択していくと、それがどんどん道義的な正義と反していくという物語に見えた。

ジョンにはユダヤ人の友人・モーリスがいて、何度も助け(出国許可証の手配)を求められるがそれを断る。
彼は心からそう思っている、という優しげな口調でモーリスに「いつかこの暴力も止まる、やり過ごせば良い」と語る。
その「いつか」は決してやって来ない。ジョンのようにそうやって静観してる内は。

そして、ジョンはナチスの台頭が激しくなった時には「僕ができることは何もない、もっと早く国から出ていけば良かったのに」と哀しそうに言ってのける。
その「善良」なテナントの表情が、何より恐ろしかった。

主人公・ジョンは、自分にとっての幸福にはすごく興味があるけど、社会的な正義にそこまで興味がないのでは?と思った。
いつだって自分にちやほやしてくれる相手(若い女性・アンやヒトラー等のナチス党員)にいい顔をしてる内に、権力の内側にとらわれていく。
彼の頭の中ではいつも音楽が鳴っているという描写があるが、それは逃避の一種で、彼にとって現実はいつも薄いベール越しに見える何かなのかもしれない。
音楽を利用した最後の場面の演出が今でも忘れられない。

幕間後の休憩あけに、原作者のC・P・テイラーについての映像が流れた。
そこで彼は音楽が好きで、戯曲を書くのにも音楽的な要素を取り入れていたことが語られる。
彼が好んだ3、4のエピソードを並行して語るやり方は、音楽の対位法と似ている、という話も出てきた。
これはまさに「善き人」の構造そのもので、こうした映像も見られて大変良かった。

もっと作品について知りたくて、「GOOD この善良な人たちが」というタイトルで日本語訳された戯曲を図書館で取り寄せて読んだりもした。
当該の戯曲は1984年の演劇雑誌「テアトロ」(496号)に掲載されている。

「善き人」では劇中、沢山の音楽が流れるが、NTLiveでは歌っていない場面で歌う指示があったりして驚いた。
冒頭の方で、帰宅したジョンと妻ヘレンが会話するところはト書きで「レシタティヴォで歌いかける」と指定されている。
(調べてみるとレジタティヴォは「オペラ、オラトリオ、アリアの中で、話し言葉で語るように歌われる部分」のことらしい:
レチタティ・ | 音楽辞書なら意美音−imion−より引用)

また、妻のヘレンとのちに妻となる女性、アンが会話する場面では辻音楽士の姿をしたヒトラーユダヤのウェディングソングを演奏する指定まであった。

戯曲も読んでみて思ったのは、このお話が遠い過去の物語ではないということだ。

私は産後からうつ病を患っていて、昨年障害者手帳の2級を取得した。
具合が悪いと起きられないこともあり、掃除や料理ができない日もある。そういう時はパートナーである夫や、ヘルパーさんに家事を代行してもらっている。

「善き人」では、主人公ジョンの妻、ヘレンは何らかの理由(ジョンはそれを「脳の病気」と決めつけている)で掃除や料理ができず、育児も難しそうに描かれる。
ジョンはヘレンより若く、おそらく家事もできるのであろうアンという女性を選び、ヘレンと子供達と別れる。
ジョンは病気の母親の介護を経験し、安楽死についての小説を書く。
それがナチスに気に入られて彼はどんどんナチスに取り込まれていく。
劇中彼が関わる「T4作戦」は強制的に障害者を安楽死させる政策だった。

この時代に私が生きていたら「社会に不要」というレッテルを貼られ、殺されていたかもしれない。
また、自分の中にジョンのような「自分の幸福や快適さを、社会的正義より優先する」側面が無いとは決して言い切れない。
自分にとって都合の悪い事実から目を背け、街が燃やされ、人が殺されていても、静観して頭の中の景色に逃げ込む。
そんな部分が自分に無いとは言えないのだった。

「橋からの眺め」も「善き人」も、自分が持っている無自覚な加害性を突きつけてくる作品だった。

私は、安全な場所から自分の傷を眺めるために映画館や劇場に行く。
自分の心ゆれる場所を知るために芸術があるのだと思っているし、自分の心ゆれる場所を観客に差し出せる演者のことをこれからも追ってしまうだろう。

NTLiveはそんな貴重な機会をくれる場所だ。これからもこの試みが続くように心から祈っている。

明日、12月19日は成山さんの記事です。配信とSNSシェイクスピアについて書かれるとのこと。
今から非常に楽しみにしています!

(参考文献、ページ)
・NTLiveホームページ:
https://www.ntlive.jp/
・音楽辞書 意味音:
http://imion.jp/
・雑誌「テアトロ」1984年、496号、P.140~190
「GOOD この善良な人たちが 」(C・P・テイラー 作、吉岩正晴訳)
(書誌情報はこちら:国立国会図書館オンライン | National Diet Library Online