演劇事始

演劇や映画や、みたものの話

電話は続くよどこまでも――『フリー・コミティッド』


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人生の大事な場面は案外、地下室で決まっている


『フリー・コミティッド』(2018.07.16 14時~@DDD 青山クロスシアター)

 

※公演内容のネタバレを含みます

 

(あらすじ)

俳優だがそれだけでは食べていけないため、NYの人気レストランで予約受付係をしてるサム(成河)が主人公。

オーディションの最終選考の結果がどうなったかそわそわと電話を待っていたり、上司も同僚も出勤してこなくて一人で電話を捌かなくちゃいけなくて大変なことになったり、自分の帰省(舞台はクリスマスの2週間前くらい?)を待っている父親や兄に応対したり、個性豊かな電話相手の注文に翻弄されたりする。

 

レストラン地下の予約受付室でひっきりなしに鳴る電話を取り、電話口の相手も成河さんが声色・仕草などで演じ分ける。大人気レストラン(政治の場であり、社交の場)の席が地下にいるサムの匙加減ひとつで決まる、というギャップは面白い。

 

これ、都会で仕事をしている人は特に身に詰まされる話なんだと思う。

何かを「選ぶ」ことには精神的なコストがかかる。だからこそ、私たちはよく「選ばない」ことを「選んでいる」。

サムは割とずっと受け身な人で仕事もどうにかやり過ごしている。ところが、中盤のある場面(声がひどくかすれているお客に呼吸法の話をするところ)で彼は急に主体的になる。

それは、彼が予約受付係である前に俳優だから、その仕事をしている人間であるから出来ることをするのだけど、その場面が凄く良くて、あそこで流れが変わったのかな~と思う。それまで散々めんどくさい事態に振り回されていた人が、あそこから主体的に人に関わろうとするんですよね。

お客さんに頼まれていないのに、自分から呼吸法を電話越しに教え、相手の声がうまく出た瞬間、喜びの声を上げるサムの姿に私はなぜだか心が揺れた。

 

何故自分がその場面で心揺れたのか考えてみた。私は対人援助の現場で働いていて、仕事中に「職業に就いている自分」としてでは無く、「ただのわたし(一個人)」としてかかわる瞬間というのが確かにあって、そういう時にしか聞けない相手の言葉もある。

勿論、仕事なのでずっとそれは続けられないのだけど、その瞬間があるからこそ後の仕事がとてもうまくいくということがある。サムのあの行動は、予約受付係としての彼ではなく、「彼個人としてやりたい事」を初めて見せてくれたような気がして、それがすごく嬉しかったんだろうと思う。そういう瞬間が見られるのってすごく元気が出るし、明日も仕事を頑張ろうと思えた。

成河さんが

「元の戯曲のままだと悪い奴をやっつけてスカッとする『勝者の物語』、今の日本でそうした物語をやる意味があるのかと思った。だからラストを少し変更した」

と話していた気がするんだけど、私はラストのサムの行動は、「資本主義の社会での『勝者の物語』」にはならない様にできてるなと思った。

あの行動(マフィアが席を都合してもらうために送ってきた大量の100万ドル札から、1枚だけお札をポケットに入れて部屋を出ていく)は、「自分のした仕事に対する対価を『自分で決めた』」というものだと思うので、自分の労働力を貨幣に置き換え「買われる」のが資本主義なのだとしたら、それとはまた違う「勝利」にみえたんですよね。

 

主人公のサムがしている仕事=電話を「取る」のはあくまでかかってきた電話に対応する、という受動的な行為なんだなと思うし、中盤までサムは目の前に差し出された情報を前に、何とかその場を凌ぐために行動するんだけど、段々自分から相手に要望を伝えたりはっきりと拒否したり意思表示をする様になる。

サムは本当は「選ぶ」ことができる側なのに、その力を自覚してなかった。

終盤彼がする行動は自分の立場・その力を利用して「うまくやった」ものであり(それが倫理的にどうなのかはおいておき)少なくとも受動的な行為ではなくなっている。あれをした事で成功が約束されたか、というとそこまでは描かれていないし。戦場に立つ権利をもぎ取ったに過ぎない。

自分自身で考え、主体的に「選んだ」者にしか、その権利は与えられない。そういう話なのかな、と私には思えた。

 

○○をする、という選択より○○はしない、という選択をする方がすごく心理的なコストがかかる気がするし、ときにそれが自分を救ってくれる。

ラスト、鳴り響く電話を取らずに部屋を出ていくサムが、少し誇らしげに見えた。

多分彼はまたあの仕事を続けるんだろうな。周りから「まだその仕事続けてんの?!」って言われながら。

 

私達は自分で思っている以上に、他者から思われ、他者から裏切られ、全然係累のない人からご褒美を受け取って、今日も都会を生きていく。

 

爪を立て、生活にしがみつく――『しあわせの絵の具』

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ちいさなお家で生きた人達

「しあわせの絵の具」を観た。
サリー・ホーキンスイーサン・ホークの静かな演技力のぶつけ合いが凄まじい映画。

親戚の家に身を寄せ、肩身の狭い思いをしていたモード(サリー・ホーキンス)が、「家政婦募集」の貼り紙を見て、魚売りのエヴェレット(イーサン・ホーク)の家に行き、自分を雇ってくれと頼み、衝突を繰り返しながらも2人は夫婦になっていく。
やがてモードが描いていた絵が認められ・・・・・・というお話。

モード(サリー・ホーキンス)は最初、エヴェレットの「家政婦」として雇われ、本当にびっくりするほど酷いことを何度も彼に言われたり、「物」として扱うような態度をとられるわけです。
この映画は特に年月を明示しないのだけど、暮らし始めて暫く経ったと思われる頃、モードの絵を買いに来た女性と彼が話すシーンでそれが変化する。
いくつかの絵の中から、女性が「買いたい」といった絵を、モードは縋り付くように見る。何か理由があって絵を売りたくないのだ、ということが観客には分かる(この時、モードは直接的な拒否もしないし、仕草ではっきりそれを示すわけでもないが、サリー・ホーキンスの細やかな演技はとても雄弁にモードの心情を物語る)。
そして、モードがはっきり口にしなくても、彼女の魂が守ろうとしているものをエヴェレットはすぐに察して、同じようにそれを守ろうとする。
二人の過ごす年月の中には、正しいことも、怒りも悲しみも喜びも、正しくないことも全てがあって、それを私達は一時だけ覗き見させてもらっている気分になる。

私が大好きなシーンは静かなダンスのシーンなんですけど、本当にこの映画は視線(カメラの視線、モードの人を斜め下から見上げるような独特な目のやり方、口下手なエヴェレットが誰かを真っ直ぐ見る目)が雄弁に語る映画で、脚の様子だけでこの二人はお互いでなければならなかった事を語るんですよね。

正しくはないのかもしれないし、劇的ではないのかもしれない。奇跡が起こってエヴェレットの尊大な態度が急に変わるわけでもないし、モードの人柄があるきっかけで変化するわけでもない。
そうなんだけど、この二人はかのように生きて、かのように支え合ったということだけが確かに残る映画なんです。

“ほっこり”、“癒し系”、“うつくしい夫婦の絆”といった内容を予想して行くと、ものすごく生々しく、我々も現実に目にするような痛みや無理解、コミュニケーションの取れなさやもどかしさ、そこに一筋差し込む光のような美しいものを丸ごと胸に投げつけてくる作品。
それって、ものすごく単純に言えば「人生」そのものなんですけど、実在の人物を描く上でこの上なく誠実なアプローチだったんじゃないのかなと思います。
あそこには人生があって、私も一時だけカナダの小さいおうちの中でモードとエヴェレットと暮らした気分になれたよ。
本当に公開してくれてありがとう。


www.youtube.com
0:36くらいで「妻が絵を描いている間、気を利かせて掃除するけど『絵に埃がつく』とドアを目の前で閉められてキョトンとした顔をするイーサン・ホーク」という最高の場面が見られます。

あと、本編中ずっと紅茶を淹れるのがしぬほど下手くそなエヴェレットも必見です。そのティーバッグはそろそろ捨てよう。

魂を自由にせよ――『豚小屋』

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人を辞め、ひとへ戻る

 

 2017年1月7日@新国立劇場(主演:北村有起哉田畑智子

 

ネタバレを含みます

 

軍隊から脱走した男が妻に協力してもらい、家の豚小屋に数十年隠れ住む話。

全体を通して、人間から逃げ出した人が、人間の中に戻ろうとする話だと感じた。

汚臭漂う豚小屋で忍び隠れる自身の不幸を嘆くパーヴェル(北村)と現実的で冷静なプラスコーヴィア(田畑)のやり取りは壮絶なのに俗っぽく、時には呑気で笑えて、ある場面まで何処かアルコール依存症の夫とイネイブラーの妻みたいにも見えた。

栗山民也さんの演出はずっと好きなのだけど、この人はすごく役者のことを信じているのだろうなと今回感じた。顔を見せずにそこに無いものを有る様にみせられると信じている人、というように思う(栗山さん)

北村有起哉の、さっきまで熱っぽく自分の感情に酔っ払って喋ってたのにいきなり凄みある声に変わって暴力を見せる人に変わる、そういう自然にくるっと切り替える所や、田畑智子が豚小屋の扉を閉めるとき、観客に顔を見せないのに毎回顔が想像できるように立ち振る舞う所が本当にご両人お見事で、最高。

 

(お話の流れと感想)

「豚小屋」、季節も年月日も特に明言されないお芝居なんですが(ロシアが舞台だということは明らか)とても静かに始まります。

1場

何も音楽が流れずひっそりとパーヴェル(北村有起哉)が舞台隅から姿を現して演説の練習を1人しているところから始まる。
この時の北村さんが本当に自然にいつの間にかそこに最初から居るように出てくるのが地味に凄い。

薄汚れた木の床には汚れているだろう藁が散乱し、小さな出入り扉以外は板を打ち付けふさがれた豚小屋。光は壁の隙間から差し込む3,4筋だけ。豚の鳴き声はほぼ絶え間なく聞こえる(豚達は柵の中という設定なので観客には見えないようになっている)。
パーヴェルは練習しながら豚の鳴き声に苛立って棒で豚を殴りまくったりする。
 彼に呼ばれてプラスコーヴィア(田畑智子)が小屋に入ってきて段々と観客は状況がつかめてくる。
彼らが暮らす村では戦勝記念日の式典が今日、開かれ戦死者の慰霊碑の除幕?がおこなわれる。その式典で戦死者として扱われている自分の名が読み上げられた時に、10年間脱走兵として豚小屋に隠れていたパーヴェルは姿を現し、村人や軍関係者に許しを請う予定なのだ。そうしてこの過酷な潜伏生活を終わらせるつもりらしい。
 どうやったら村人達の同情を買えるか、彼は何度も何度もスピーチの内容を検討する。プラスコーヴィアも助け船を出す。

彼が10年前、脱走してこの家にたどり着いたとき、ほとんど口もきけないほど衰弱し凍死寸前だったこと。

やっとスープで舌が溶けたと思ったらまず、「俺の赤いスリッパを持ってきてくれ」と頼んだこと(ここでプラスコーヴィアは白けた顔をする)。

スリッパを持ってくるとそれを胸に抱いて泣き始めたこと。
そして胸に抱いたまま、豚小屋によろよろと入ってそのまま寝てしまったこと。

こういった悲惨な事実を伝えれば、きっと赦して貰えるのではないか、と。


パーヴェルは自由な身の上になったら母が作ってくれた、美しい刺繍が入ったスリッパを履くつもりで大事に取っていた。
妻は「今ここで履いてご覧なさいよ」と言うが「お前はちっとも分かっていない、こんな汚いところで履けるようなスリッパじゃ無いんだ」と一演説をぶつ。
 しかし、緊張と昂揚で高ぶっている夫と反対に、プラスコーヴィアは本当に村人が夫を許すだろうかと気が気でない。
パーヴェルは釈明の際、軍服を着ていこうとするがプラスコーヴィアは「結婚式で着た黒のスーツなら用意してある」と出すのを渋る。
10年の間にプラスコーヴィアはその古着から布を切り取り雑巾に使ってしまったのだ。穴だらけのぼろぼろの軍服を着てみるがおかしすぎてこれでは着ていけない。
 次第にパーヴェルはやはり出て行けないと諦める。「自分はずっとこんな小屋に居て、人間が本当はどういう生き物なのか忘れちまったんだ、赦してくれるわけがない」
そして、妻に式典で自分の戦死を嘆き泣く演技をするよう頼む。
信仰深いプラスコーヴィアはこの嘘で自分達の魂は地獄に落ちると嘆き、その場で祈って小屋を出て行く。


やがて彼女は喪服姿で戻ってきて、ソ連の旗を嬉しそうに振りながら役目をやり遂げたことを話す。
式典ですっかり愛国心を昂揚され帰ってきた妻にパーヴェルは白けた態度を取る。妻は自分が重い役目を果たしたことにすっかり安堵し、周りが自分を未亡人として哀れみ抱きしめキスをし同情を寄せてきたと嬉々として話す。
虫が好かない村人の一人などは帰り道、彼女に再婚を申し込んだほどだった。「今日があんたの苦しみの終わりの日だ」とプロポーズを再現してみせる。人民委員の演説も素晴らしく、戦死した兵士達のおかげで今自分達はこうして生活が出来るんだ、と感激し「あんたが本当に死んでしまったかと思ったくらい!あんな演説の後になんてとてもじゃないけど出て行けなかったわ」とソ連旗を夫の胸ポケットにさしてみせる。
 勿論、外の世界の話をそうやって話されたパーヴェルは気に入らず、自分を憐れみ始める。プラスコーヴィアは暫くそれを聞いているが、ついに「汚れ物が山積みなの」と話し、出て行こうとする。
「そういう風にか」
「そういう風によ」
プラスコーヴィアが出て行き、彼は1人豚小屋でスリッパを胸に抱きながら今は亡き母親に
「この赤いスリッパをもう一度履きたいと思ったが為に自分はとんでもない間違いをしでかした」と語りかける。
 パーヴェルが逃亡したのは戦争中、寒さと飢えに苦しむ中で自分の内側の声「家に帰れパーヴェル、赤いスリッパが待ってるぞ」に従ったからだった。
自分より大きな男が夜になると母親の赤いスリッパの話をせがむ。彼は徴兵されたての頃はパーヴェルの話を馬鹿にして笑っていた。そんな話ですら男達は黙って火を見つめながら子供のような顔で聞きたがる。軍隊生活が3年を過ぎると何時になったら帰れるのか、みなが不安で寒さと固いパンしか食べられない飢えに苦しみながら思っていた。
自分がした事はそんなに悪いことだろうか。寒さでほとんど気が狂いそうだったんだよ、母さん。
パーヴェルはスリッパを抱きしめながら話すのだった。

 

2場
 パーヴェルの格好からして今は恐らく夏。彼は虚ろな目で小屋にたかる蝿をナイフで殺し続ける。
長机(長椅子にもなる)の上にはあの赤くて綺麗だったスリッパがすっかり薄汚れて小屋と同色になって放られ、その片側だけパーヴェルは履いている。それで嘗ての彼の夢が潰えたことが示される。
 やがて、小屋に美しい蝶が入ってきたのがマイムだけで示される。蝶を見られた嬉しさで、久しぶりに笑い声を上げる自分に驚き、妻の名前を呼ぶパーヴェル。
「お前はこんなところに居ちゃいけない、外に出て俺の魂の欠片だけでも一緒に連れて行ってくれ」と逃がそうとするがその蝶はあえなく豚に食べられ、彼は激高して豚をナイフで殺す。
 大きな物音に驚き、妻が入ってくる。血だらけの夫を見て自殺したのかと思い込むが生きていてほっとする。
濡らした布で血を拭ってやりながら話を聞くと、パーヴェルは熱っぽくあの蝶は無垢な少年だった自分の象徴なのだ、と語る。自分はこの小屋の中で唯一の美しいもの、蝶を見て久しぶりに声を上げて笑った。
「あんたが笑うの聞きたかったわ。結婚する前聞いた声。すごく素敵な笑い方するもの」
「俺はお前を呼んだんだよ」
美しいものが獣に食われ、糞になるのを見て自分の人間らしさは台無しになった、ここで蝿を殺すことしか出来ず、その数を数えて生きるだけなのは地獄にいることと同じだ、それが自分への罰だ、と自己憐憫を始める夫に対し、
静かに妻は「地獄は死んだ人間が行くところ」という。
その言葉にお前は俺の気持ちがちっとも分かってない、と怒りあのスリッパを豚の居る柵に放り込むパーヴェル。
自分の人間らしさなど食べられて豚の糞になれば良い。と投げやりなことを言う。
「俺は豚共を率いて社会を作ってやるさ、こいつらを扇動して革命でも起こさせようか」と自棄になる夫に
「お節介をするつもりはないけれど、一つだけ聞かせて。そんなことをして何になるの」と静かに言う妻。
「今日はキャベツのスープと蒸し団子を作っていたのよ」
「・・・・・・蒸し団子の薬味に使うアニスの実は足りているのか」
「足りているわ」そんな日常の会話をして何となく場がおさまる。

 

3場
2場より更に具合が悪そうなパーヴェルが寝ている。プラスコーヴィアはそわそわしながら蝋燭に火を灯し夫の世話を焼く。暑くて呼吸がしづらいと訴えるパーヴェル。
 どうしても、少しだけでも外に出たい。
そう願い、計画を立てて貰ったパーヴェルは妻に懺悔を始める。
自分はお前と結婚した時、見かけだけは立派なスーツを着ていたがそれだけだった。
軍服を着て手を振って家を出ていく時も軍服を着ていただけだった。
その卑下の仕方にあまり取り合わず、プラスコーヴィアは自分の洋服(赤いダマスク柄?のワンピース)を夫に着させ、夫は女に変装して村が寝静まった夜中にそっと外出することになる。そんな準備の時ですら妻に鏡を持ってこさせ、ブローチがあった方がいい、など細かく注文をつけるパーヴェル。妻はイライラしながらもブローチをつけてやり、あんたは私の親戚で一言も口がきけないってことにしましょうと万が一誰かと会った時のために設定を確認する。

 小屋を出て散歩をする2人。舞台から下りて客席の通路でやり取りをする。
外の世界にいちいち感動して大声を出す夫に妻は見つかってしまう!と注意をしながら歩く。
星・野バラ・野バラの香りを運ぶ風。
そんな自然に心を揺り動かされたパーヴェルは妻に「このまま2人でこの道を進んで違う街へ逃げよう」と誘う。
今のまま豚小屋で生き延びるよりは外の道の溝の間で死ぬ方がいい、と言うパーヴェルをプラスコーヴィアは突き放す。
 このまま女の格好で逃げてもあんたは溝では死ねない。牢屋で死ぬか、軍法に背いた罪で銃殺されるかだと。
行きたいなら1人で行くしか無い。自分は行けない。ここでせめてあんたに小さく手を振ってあげる。さぁ行きなさいと。
 1人で道を進むが途中で引き返し、パーヴェルは妻の膝に縋り付く。
「せめて此処で一緒に夜明けを見てくれ」と頼む。プラスコーヴィアは硬い表情でそれを断る。村の半分は夜明けと共に起き出して仕事を始める。ここに居れば見つかる。自分は家に帰ると。
夫は「お前が俺を置いていけるはずが無いんだ!」と大声を出すが妻は静かに家に帰っていく。
パーヴェルは暫くその場に立っているが辺りが白み始めると妻の名を小さく呼んで後を追いかける。

 豚小屋にプラスコーヴィアが帰ってくる。蝋燭に火を灯し、静かに座っている。高ぶった感情を抑えようとしているように見える。パーヴェルもやがて騒がしく音を立て戻ってくる。
服を乱暴に脱ぎ捨て、
「あの時、お前が少しだけでも俺を励ましてくれていれば、俺は外に出られたのに」と妻を詰る。
「お前にとって俺はこいつら豚と変わらない。お前のお気に入りだから餌が上等で服を着せているだけだ、俺は今からこいつらと同じになる、今日から俺は豚だ」
とほぼ裸のまま豚の囲いに入り豚の真似をしてみせる彼の横で妻は初めて激しく怒る。
これはひどい侮辱だわ、私は人間と結婚したのよ、豚とじゃない」
そして彼女は跪いてイエスに祈る。
「このままでは私は夫にとんでもないことをしてしまう予感がします!お赦し下さい!」
祈る間中、豚が踏んだ汚い藁を妻に投げ続けるパーヴェル。
プラスコーヴィアはついに立ち上がり、豚を叩く棒を握り夫を何度も打ち据える。
「あんたが人間の言葉を話すまでやめない!」
ついにパーヴェルは妻の名を呼び、柵から出て立ち上がる。
夫にバケツの水を思い切りかけて妻は呟く。
「パーヴェル、あんた二本の足で立って喋ったわ。あんた人間よ」
「私が出来るのはここまで」
そう言い残してプラスコーヴィアは小屋を出て行く。パーヴェルはずぶ濡れのまま、立ちすくんで俯く。

 

4場
毛布にくるまったパーヴェルが長椅子に座り、鏡を掲げ自分の顔を見ながら延々と自身と話し続けている。
と、思いきやどうも人民委員、という言葉が出てきたり軍隊時代の上官と話している調子で新兵のように話すパーヴェル。ついに狂ってしまったのか、と思わせられるような語りぶり。
「豚達が自分を苦しめる」と『人民委員』に訴えるパーヴェル。
「もうお前は彼らを十分に痛めつけた。どうしてお前は彼らを自由にしてやらないのか」
鏡を見つめながらパーヴェルはハっとした顔をしてゆっくり立ち上がり、小屋の壁に打ち付けられた板(歪んだ十字架のように見える)を力を振り絞り外し、肩に担いで床にうち捨てる。
その姿は一瞬、十字架を背負っているキリストのように見える。そして重い扉をやはり苦しそうに押して開けていく。
 
 薄暗く光が4筋ほどしかなかった空間に急に薄い光が入ってくる。青と灰色の中間のような色で照らされた背景と植物。このお芝居で初めて豚小屋から外が見える。
パーヴェルは棒を手に取り、柵にぶつけて豚達に話しかける。もうお前達を殴らない、ここから出ていいんだ。
豚達の鳴き声は急激に高ぶり、足音が連なり、段々と奥に消えていく。パーヴェルはそれを暫く見守って、観客に背を向けて長椅子に腰掛ける。
プラスコーヴィアが白いワンピースに黒みがかったストールを肩にかけ、ランタンを手に持って、そっとやってくる。逃げていった豚達を見ている。
「ここはこんなに静かだったのね。まるで教会の中に居るみたい」
自分ではこんなことを思いつかなかった。どうしてあんたには出来たのか。妻は夫に尋ねる。
「俺はただ一度でも静かに眠りたかった。豚を放したのは人民委員の命令を聞いただけだ。良い兵隊は命令の理由を聞かない」
そう、とプラスコーヴィアは言って
「あんたは私たちの生活の糧を、唯一の財産を全部逃がしてしまったというのに、おかしい、今は何故か歌いたい。」と話す。
「歌。歌は良い。歌えば良いさ」とパーヴェルは穏やかに返す。
プラスコーヴィアは簡単なメロディーを口ずさむ。子供の頃に歌っていた歌。夫もよく知っている歌。
彼女は夫と反対向きに長椅子に腰掛け、
「今度は大声で泣きたい。教会で泣くのはおかしくはないわよね?」と言う。
「泣けばいいよ」と夫は言う。
彼女は全身から振り絞るように思い切り嘆き泣く。暫く泣くと冷静になって顔を上げる。
これからどうするつもりなのか、と彼女は聞く。
「自首するつもりだ」
「警察に?」
「脱走して30年以上も隠れていたんだ、警察なんかじゃだめだ、軍に」
「俺は人間が恋しい。ここに居て、漸く分かった」
プラスコーヴィアは微笑んで、
「惜しいわ。今ならあんたと一緒にあの道を何処まででもついていくのに」と言って彼の着替えを取りに行く。
プラスコーヴィアは1場で言っていた結婚式の黒いスーツをずっと取っていた。
「これだけは何時か必要になると思って」と言って、着替えを手伝う。
パーヴェルは髪を水で撫でつけ、身なりを整える。
「慰めになるかは分からないけど、あの夜見られなかった朝日が今から見られるわ」
プラスコーヴィアとパーヴェルはゆっくり外に出て、徐々に白み始める空を見上げる。
パーヴェルが腕を差し出し、プラスコーヴィアはそれに自分の手を絡める。
結婚式を挙げるみたいに2人は腕をからませて、ゆっくりゆっくり日の出の影になって消えていく。

北村さんの演じたパーヴェル、という男は状況があまりに壮絶だから元々はどういう人だったかというのを差し引かないとみてられない程、機会さえあれば自分の不遇を嘆き、妻に甘え、神を呪い、自己憐憫に浸って詩人のようなことを言う理屈っぽい男なんですが、4場でパーヴェル自身がキリストを思わせるように描かれるのを見ていると人から逃げて人の輪から抜けた存在がもう一度神(鏡にうつる自分自身の内面)と対面することで、再び人の輪に戻っていくお話だったのかなぁと思う。一度は豚になりきって人間であることすら辞めようとしていた人が、もう一度人間になる話というか。
そうやって夢見がちで感情に酔いまくる夫と対照的に田畑さん演じるプラスコーヴィアはすごく地に足がついた、純朴で信心深く芯が強い人として描かれる。彼女の目の前には一人で家を回していく、という現実が常にあって、小屋の中で嫌でも虚無と戦って精神をすり減らしているパーヴェルに全部付き合っては居られない。
でも、そういう強さを持つ彼女一人でも勿論パーヴェル彼一人でも多分、これまで虐げてきた豚を逃がしてやることで自分達自身が自由になる、ということは無かったんじゃないかなと思えます。
全然違う、他者同士で何とか生き抜いてきたからこそ、魂を自由にできたのかもしれない。

 パーヴェルが大事に取っていた赤いスリッパが、ほぼ茶色しかない舞台上ですごく映えて見えていたのに次の場面ではもう色も分からないくらい薄汚れていたりするのが彼らの生活の過酷さを思わせて胸が潰れそうになる。
 特にメイクとか衣装で時間の流れは表現されないので役者達の演技と台詞だけで数十年の年月が経過しているのが示されるんだけど、4場の老人になっている2人がやっと肩の荷をおろして結婚したてのように温かく感情を交流させていたのがすごく良かった。それまでの暴力(肉体的にも精神的にも)とかあまりに辛い逃亡生活をみてきたからこそ、彼らが朝日を2人で見られたこと、それに向かって歩んでいく姿に希望を託さずにはいられなくなる。
 田畑さんが豚小屋の小さい扉を閉める時、ちょうど首から下しか見えなくて顔は分からないんだけど1~4場それぞれでまったく違ったように退場してくし、多分プラスコーヴィアはこういう表情なんだろうな、って想像せずにはいられないようにやってらしたり、4場の豚を逃がした後の大事な会話で北村さんがずっと背を向けて演技していて、でも高く掲げた鏡越しにちらっとだけ表情が見えるとか、栗山さんの演出はすごく細やかに計算されてるし肝心なところを引き算していて、役者を信じているんだなぁと伝わってきた。

 

私たちはどうして演劇を観るのか

2016年、「ラディアント・ベイビー」「BENT」という非常に忘れがたい舞台を観た。その後考えたこと。

どちらも、観てみて思ったのはどうして演劇を観に行くのかって、多分知ってるけれどなかなか覗き込めない他者の在り方であったり、そこにある綿で包まれてない感情のやり取りを目撃したいと望んでいるからなんだなってこと。ある意味野次馬精神の発露だ。

私たちは、人と人が愛し合うことがあると知っている。
自分が当事者ではなくてもたまには他の人のそれに触れることがある。
でも、現実では他者と他者には距離がある。じぃっと見ることは失礼に当たる。
お芝居や映画では私たちは心置きなく人と人との営みをじぃっと観ることができる。

スクリーンや舞台上で繰り広げられる感情のやり取りは、作り手が「どう観せようか」と考えてそこに提示されたものだ。
テーマはありふれていたって良い。テーマになるような大事なことはそれほど多くないからだ。だからこそ、作る側は「どう伝えるか」「どう感じさせるか」に焦点を当てて本番の幕が開く。

私たちは、舞台の上でときにカラフルな照明や、ときに音楽の力や、ときに演者の訓練された表現によって、ありふれているテーマがひとの頭を通してどう翻訳されるかを目撃することが出来る。

家に居ても勝手に情報が入ってくる世で、わざわざチケットを取ってわざわざ交通機関を使ってわざわざ時間を割いてそれを観る。

わざわざ、ということ。自分が選んで観たいと思ったものを観ることが出来るということ。そして観て良かったと思えたり、ひどくつまらないと思えるということ。
虚構の人間たちだからこそ、思い切り感情を投影して、ひどく不躾な目線を送り、彼ら彼女ら他人の人生について考えるということ。それは劇場に行かないと出来ない。

他人の頭の中は絶対に覗き込めない。
ただ外に出された断片だけが手がかりで、芝居だってその断片のひとつでしかない。でもその断片には雲母のきらきらした反射や、黒曜石のようなぐっと深い暗さや、石英のちかちかした光のようなものが込められていて、芝居を観ている間だけは指先で触ることができる。

演者が終演後、また現実の人となって私たちの前で挨拶をする。すると幕が下りて、指先に触れていたものは途端に自分達の頭の中だけにしか存在しなくなる。作り手の頭の中にあった断片が、今度は私たちの頭の中の断片になる。こんな遠回りで効率的とは程遠くて不確かなコミュニケ―ションは他にない。

でもそんな不確かなコミュニケーション、ただ芝居を観るだけのことをどうしたって愛さずにはいられない。すごく不思議だなと思う。

恋とは災害である――『フェードル』


だって仕方ないじゃない、愛してしまったんだから



ネタバレを含みます。


私は蜷川幸雄演出・藤原竜也主演の「ロミオとジュリエット」という舞台で初めて髙橋洋さんという俳優を知りました。
その時の役柄はロミオの友人・マキューシオで、丸いサングラスをかけて下卑た冗談を交えて弾丸のような喋りでロミオの恋路をからかい、死んでいくものだったのですがとにかく異様に生命力の強い塊をみた、って感想でした。マキューシオは本当においしい役というか、役者だったら演じてみたい立ち位置なんだろうなというのが分かったのは、もう少し後になってからです。

時を経て「アドルフに告ぐ」という舞台を観ました。
髙階洋さんはヒットラーの役でした。
小柄な体格で軍服を着こなし、常に張り詰めた空気でその場にいて、もう正気じゃなくて、全てを疑い、それでいて愛する女性に自分を全て承認して欲しくて仕方がない、哀れな男を演じていました。
切れ長の目がぎらぎら光って、時に暗く沈んで人を呪い人を殺していく様は悪夢のようで、でも魅入られてしまう。
彼が死んだ時には心底ほっとしてしまった。

舞台には善悪はないんじゃないかと時々思います。
現実に居たらこの上なく厄介だし関わりたくもない人間でも、ステージの上では魅力的な、ずっとみていたくなる人になり得る。
「フェードル」でタイトルロールにもなっている女性・フェードル(とよた真帆)もその様な人の一人です。

「フェードル」のあらすじを書いてみます。
・義理の息子のことが好きになっちゃったフェードルさんがめんどくささを振りまき周りを巻き込むだけ巻き込んで死ぬ。

簡潔に書くとこんな話です。
それではあんまりなのでもうちょっと書きます。

ときは神話の時代、場所はアテネの国です。
フェードルさんはある国の王妃、夫は国王で有名な英雄・テゼー(テセウスの名で知られてます/演じるのは堀部圭亮)。
2人の間には子どもも居る。
テゼーの前妻との子で美しい王子・イポリット(中島歩)は冒険の旅に出て戻らない父を案じ、自らも父を探す旅に出ようとしている。
そして「自分の父親が滅ぼした一族の生き残りの娘・アリシー姫(松田凌)に恋をしている」「でも俺達は敵同士だから報われなくて苦しいので国を出るね・・・」と養育係テレメーヌ(髙橋洋)に打ち明ける。
テレメーヌは演出上、1人だけ太平洋戦争時の日本軍みたいなカーキ色の軍服着て、「挺身隊」って書いた襷(たすき)をかけている。
今まで自分が育ててきた王子が微笑ましい初恋をしてるのをにやにやしながら聞いているテレメーヌ。
誰も本気で国王のこと心配してない気がするけど気のせい。

※イポリットはフェードルからしたら義理の息子で、血の繋がった子ども達に次の王位継がせたい!と思ってる(ように振る舞ってる)ので今までフェードルはイポリットをいびり倒していた。
だからテレメーヌもイポリットもフェードルは嫌い。

※テゼー王は冒険大好きじいさんなので、若い頃から色んな女性と浮き名を流してきていて、イポリットはそういう父親の浮気性に反発して恋もしてこなかったけどアリシー姫のことは好きになっちゃって苦しい。この時代から恋愛後遺症は旅で治そうという文化があったのか。

その頃、フェードルは自分は本当はイポリットに恋しちゃっていて、こんな恋してちゃだめだ!と分かってるから嫌いになろうとしていびり倒してた。。。みたいなことを今更乳母のエノーヌ(馬淵絵里香)に打ち明けている。
この時点で昼ドラも真っ青のドロドロっぷりとこれからろくな事が起こらないという予感が観客に巻き起こる。

・エノーヌに「もう無理、恋って苦しい、もう死ぬ」って言いまくってるフェードルさんのもとに凄いニュースが飛び込んでくるよ。
「テゼー王が旅先で死んだらしい」
衝撃でぶっ倒れるフェードル。
エノーヌは「夫が死んだんだったらあなたの恋、褒められたものじゃないけど何とかなるんじゃないですか?」とまたろくでもないアドバイスを吹き込む。
フェードル、最初は無理でしょ~って言ってたけど段々その気になってイポリットの到着を待つ。
「今までいびってたけど本当は私あなたのことが好きだったんです」って打ち明ける決心をつける。
修羅場の予感だけがある。

・出立する前に一応礼儀として義理のおかん・フェードルさんに挨拶に来るイポリット。
自分をいびり倒してきた相手だから全然気乗りはしないけど王妃は王妃。
・直前までエノーヌに散々恋心を喋りまくりテンション上がってたフェードルさん、告白。
・イポリット、もちろんドン引き。
「聞かなかったことにします」
・フェードルさん、「そうよねーそう思うのも無理ないし私も今まで散々こんな恋はいけないって思って悩んでたんだけどやっぱり好きだから・・・本気で好きだから。。。こんな恥ずかしい告白しちゃったんだからいっそ殺してよ!!」とイポリットの王剣を奪います。
・エノーヌが飛び入ってきて「剣持ってなにやってんですか?!」と止め、「テゼー王やっぱり死んでませんでした!」という流石に笑うしかないニュースを聞かせます。
・フェードルさんもイポリットさんも「え・・・・・・」という空気になり、王の帰還となります。

・髭ぼうぼうのテゼー王、久々に帰ってきて妻の顔を見たら
「私はあなたに愛される資格ないの」などと唐突に言われ立ち去られ、息子も凄い気まずそうな顔で出迎えるし
「お父さん、ぼくはこの国を出ますので許可を下さい」などと言ってきます。
テゼー王、当然困惑のち怒り。
「死ぬ思いで何とか帰ってきたら一族が自分を避けるんだけど何が起こったんだ???」と当然の疑問を投げかけます。
しかしこの王様も自分の国を放置して親友の恋をたすけるためにどこか遠い島に行ってたらしいから別にそんなに同情も出来ない。
・テレメーヌに義理のおかんに告白された話をしようとするも「やっぱ言うの止めるわ」と思いとどまったイポリット、出立しようと決心再度固める。テレメーヌは基本的にイポリットを応援しており手伝ってくれます。

・その頃のエノーヌと大荒れのフェードル。
「やっぱ言うんじゃなかった今更どの面さげて王妃やれば良いんだ」
と大後悔。

何だかんだあり、イポリットはアリシー姫へ恋を打ち明け、お互いの気持ちを確認し合い、それをフェードルが知ってしまったことで彼女は「イポリットが自分を襲った」という嘘を夫に侍女を通じて話し、怒り狂ったテゼーはイポリットを追放。
テレメーヌの手引きのもと、イポリットは憤慨しつつもアリシー姫と駆け落ちをし国を出るが、テゼーが真実を知った頃にはイポリットは海の怪物に襲われ死に、アリシーも自殺。
元凶となったフェードルは自らの罪の重さに狂乱し、テゼーとテレメーヌの目の前で王の剣を使い自殺。
後味の悪い結果に、というのが原典の「フェードル」の展開。

舞台では最後が改変され、フェードルに恋をそそのかし(それも彼女を思ってのことだったのですが)結果的に最悪の事態になったことで怒りを買い解任された侍女・エノーヌと、王子の養育係・テレメーヌが駆け落ちのあと二人が死んだという嘘を仕立て、国に愛想を尽かし出ていくという展開になっています。
王子も姫も実は生き延びていて、国から逃げ出し、後には放心した王と死んだ王妃だけがいて、テレメーヌは全てを諦めた顔で自分がかけていた襷を舞台に下がっているオブジェに引っかけエノーヌと共に立ち去ります。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
寺山修司の短歌をテレメーヌは最後に言い残し、舞台は終わります。

テレメーヌが王と王妃にイポリットとアリシーの最期を報告する場面はとんでもない一人長台詞、身体表現で、髙橋洋さんの演技力が全面に出ていました。

風刺的な側面(権力を持つべきでないものが権力を持つことへの批判)が最後に直接的に出てきて、そうした演出の仕方(と強引なややハッピーエンド)はあんまり自分は好きじゃないなぁと思いました。
演出家の提示したいメッセージが『フェードル』という題材に合ってないというか、そのメッセージは別の話で出せばよいのでは‥…という気持ちが残る。
ただ、終盤の目をかっぴらいて悲劇を告げる髙橋洋の演技は忘れられなかった。

原典読むとフェードル自体が天災(災厄)というより、恋という感情自体がコントロールできない災害のようなもの、というように思えたので、舞台版で王子と姫を生き残らせ、フェードルという個人が悪い、と見えるようにしちゃったのは何だかなぁと思います。

君の愛は僕には見えない――『アドルフに告ぐ』

アドルフに告ぐ』(2015年6月10日 13:00~@KAAT 神奈川芸術劇場

 

ネタバレあります。

 

・全体を通して

様々な人物を追う形式のお話であるため、場面は国や時間を越えてくるくると変わっていくし、原作の厚みもあり、情報量を台詞に込めていた印象。

ただ、演出が抽象交じりの具象でわかりやすく情報が提示されたり、役者さんの演技の力によってそうしたハードルを越えて目の前に「人生」を突きつけられる舞台でした。


主軸は3人のアドルフのうちのアドルフ・カウフマンかなぁと思いましたが、どのアドルフも出てきた場面で自分達が(舞台上でも、お話の上でも)与えられた役割を着実に、生々しく演じていてあっという間の3時間。
私は原作読了済で観劇しましたが、省略された場面もあったので原作は前でも後でもどちらでも良いので観た方には読んでみてほしいなぁと感じました。原作漫画を読んだ上で観ると情報は整理しやすいかもしれません。でも読んでなくても全然問題ないと思います。

 

・3人のアドルフと峠草平という狂言回し

この舞台は、既に亡くなっている峠草平の追憶、というところからお話が始まります。
彼が3人のアドルフの内の1人、アドルフ・カミルの墓を参るところは同じですが漫画と違って、舞台の峠は「死者」として登場します。だからこそ、彼が多くの場面で丁寧な言葉(書き言葉に近い)で独白する形式は飲み込みやすかったかも。

 

 1人目のアドルフ、アドルフ・カウフマン(成河さん)。
子供の頃から、徹底的に「選べなかった」男。3人の中で最も「選べなかった」のではないかなぁ、と思う。
時代に振り回され、他人も振り回して死んでいった男。
最初に死にかけている父親と別離するところ。
成河さんが細かく足や口元を震わせて父と向き合う。特別子供らしい衣装というわけでもないのに、ちゃんと思春期前の少年に見える。仕草から彼は父親の死より、それまで父にされてきた事で彼を恐れているのが分かる。発作を起こした父がいよいよ危ないって時、母親と話す彼は少し解放されたようにも見えた。
カミルの顔を観た瞬間、今までの緊張がとけてぱぁっと明るくなるのが(今後の展開を知っている以上)つらい。
ランプに抱き上げられてドイツに連れて行かれる瞬間の、あの絶望した顔と少し漏れた声は忘れられないと思う。
カウフマンは、ドイツでカミルの父を殺すように命じられ、段々とその環境に合わせて人格(アイデンティティ)を作り上げられていく。
でも、ヒットラーに気に入られたところで相手は既に狂っているから確立してたアイデンティティすら揺らぎっぱなし。
潜水艦で危険な旅をし、日本に戻る場面。
幾つかきつい場面はあったけど、ここが一番恐ろしかった。
ユダヤ人の象徴のような少女が、赤いスカーフを持って歌いながらカウフマンを追い詰める。
自分が殺してきた人々の代表のような存在に悲鳴を上げて「出してくれ!」と叫ぶあのもう限界、という声と顔、今まで見たことがない種類の恐さだった。
ドイツで得たアイデンティティは揺らぎ、あとがないカウフマン。

かつての自分の居場所も揺らいでいく。
母の再婚、初恋の人は親友と婚約。だからこそ仕事にしがみつく。機密書類の証拠だけが彼の失われそうな自己で縋れるものだから。もちろん、かと言って彼がやったことが仕方のないことと言い切れるわけではない。
でも、子供の頃からずっと選べなかった男が今までの所業ぜんぶが無駄だった、ということが分かり
「アドルフ・カウフマンは道化でござい!」
と自分自身を嘲る場面は見ていられない痛々しさがあった。


成河さんのカウフマンは絶望的な状況でもよく笑う。
笑っているのに、心情は笑ってない。そんな表現を幾つものパターンで見せてくれて、圧倒されっぱなしだった。
笑いにこんなに種類があるんだ、と驚いた。

 

 2人目のアドルフ。アドルフ・カミル(松下洸平さん)。
神戸で生まれて神戸で育ったやんちゃな子。商売をしてる家で育った子ならではの人当たり良く親切で、でもテキパキと状況に適応していくはしっこさ。原作よりも穏やかで温かい人、という面が強調された人間だった。これは松下さんが演じた、というところも大きい気がする。
宗教という割りと揺らぎにくい倫理を内面化しているので行動の原理もわかりやすい。それまで冗談めかして軽やかにしていたのに「神に誓って」と口にする時はふっと真剣に言う切り替え方が素晴らしかった。
というか、全般的に松下さんの演技は話しているうちに感情が言葉に追いついていって最後に爆発する、というところの凄みがあって、それが全面に出るのがカウフマンとの二度の決闘だったと思う。
一度目、それまでカウフマンがしばしば出していた自分達民族への侮蔑を真っ向からぶつけられ、婚約者を乱暴され、信念を否定されるシーン。
防空壕の中でも住民や同胞からカウフマンを庇っていたが(憤りかける他の住民に「だいじょうぶや」と小さく言い聞かせてたり細かいとこも良かった)、怒りを爆発させ彼にナイフを向ける。
ここの格闘はお互い相手を本気で殺そうとしている、という意志が出てた。
二度目、最後の決闘。
カウフマンが父を殺していたこと、それを隠して自分達と会っていたことを知り、話す内に吐き捨てるように怒りをぶつける。

軽蔑と殺意の果てに、彼は親友を殺し「あの世で俺の家族に謝ってこい」と告げ、舞台後方に座り込み背中だけを見せる。カミル的には、カウフマンは彼の家族と会えると考えてたのかな、と今回はじめてハッとした。親友は天国に行けると思っていたんだろうか。
後日、ユダヤ教に死後の世界や転生という概念は無い、という意見を目にしてまた原作を思い浮かべた。
原作ラストのカミルは「あの世でおれのパパに謝ってこい。また来世で会おう」と言う。
ハードカバー版3巻で小城先生と本多サチの墓に行くカミルのシーン。
「極楽やなんや言うたかて人間死んだらおしまいや」
「エホバの教えは『汝殺すなかれ』とか生き方をはっきり教えてます。俺たちユダヤ人には生き延びることが心情です」と言う。
この時カミルは仏教は嫌い、とも言ってるが、のちに彼が口にする来世や死語の世界ってどっちかというと仏教っぽい考え方だと思う。
もにのちゃんが書いてた、戒律を破ってエリザと結婚したのかどうかって話とも繋がるけど、よく考えれば既にカミルは「汝殺すなかれ」という戒律を自分で破っているんじゃ……。
(付記:自分達の国のために敵である異教徒を殺すことは、教義に反しない。という意見があってよりつらくなった。
国を持たなかった彼らが国を持ったらそれを守るために、それまで自分達がされていたことをやる側になっちゃう皮肉)

カミルが教えを捨てたわけではないだろうが宗教に対する考えはどこかで変わったのかもしれない。
あと、原作だと「パパに謝ってこい」だったのが「家族に」になってたのは、エリザと結婚して家族になったってことなんだろうか。(その辺は舞台でも原作でもぼかされてた)
いかにもお商売をしてる家(うち)の子ぉ、という関西弁で難しかったと思うのに松下さん、すごく上手に喋っていた。

 

 3人目のアドルフ、アドルフ・ヒットラー(髙橋洋さん)。
髙橋さんのヒットラーが舞台に登場して、民衆への演説をし始めたところで一気に「あ、空気が変わった」と思った。
空恐ろしい迫力、多くを巻き込んでいく力、そして現実に生きてるのに一瞬で自分の世界に入ってしまう狂気。
目だけがぎらぎらして、体の内側からパワーを吐き出して、場を変えちゃう。そして色っぽい。
見た目がヒットラーにすごく似ている、というわけじゃないのに、そこにいる高橋さんは確かにヒットラーだった。
別荘でエヴァと戯れたり、かと思えば首に手をかけて「君がいなければ生きていけない」というような脅しのようなことを言ったり、カウフマンを抱き寄せてにっこり笑っていたかと思えば部下がカメラを二度目に向けた時、一瞬ふっとキレそうな顔になるあの沸点が全然わからない感じ、すごく怖い。
それでも退場していく彼はやっぱり哀しい。
それまでの強い語調は鳴りを潜め、エヴァに対して今まで以上に子供のように全肯定を求める、あのアンバランスさ。
望んでいた死は得られず、絶望した次の瞬間に死ぬ。
暗殺未遂直後、誰も信じてないとぶつぶつと口にしてそれまでとぜんぜん違う態度にぱっと切り替えていく、もうこの人だめだ……って感じ、ある意味カウフマンと同じように道化として描かれてたのかもしれない。

 

観客に語りかけることが最も多い狂言回し、峠草平(鶴見辰吾さん)。
彼がベルリンで出くわした弟の衝撃的な死や、ローザ(ランプの娘)を乱暴したことは省略される。正直、それまでも描かれてたらいよいよ救いがなかったなと思う。
彼の加害者の側面は薄くなり、観客としては寄り添いやすい語り手になっていたと思う。
運命のままいろんな場所に行き着くが、環境に適応できる力強さ、何が何でも生き抜くという意志の強さを感じた。
義理の息子になったカウフマンと格闘するシーン、キン肉マンか?と思っちゃうような担ぎ上げ方していて衝撃。
(それまで峠が痛めつけられる格闘が多かったため、こんなに強いの…というびっくりもあり)
空襲で耳が聞こえなくなった、と彼が語り明かす時、その時声がいきなり掠れ、調子がそれまでと変わるのは自分の声が聞こえないことを表してるのかな、と思った。
由季江と再会したところの信用できそうな笑顔や、空襲の時すっと彼女を庇って頭を触ったり、ベッドにいる彼女の頬に手を当てて去っていく行動で安心感を与えてくれる。背中に文字を書いてもらい、妻から妊娠を打ち明けられる時の心から喜んでる様子とか。
鶴見さんは相手の演技を「受ける」時すごく安定した感じで(直接自分に話しかけられてない時の表情とか)、そこが特に好きだなと思う。あと、語り手なので独白→会話→独白、とかなり切り替えや視点の誘導が多い役で、大変だろうなぁと思った。
もう居ない人が、もう終わってしまった起きてしまったことを淡々と語り、静かに鮮やかに観客に気持ちを残していく。
この舞台が川の流れだとしたらそこに浮かんでる舟みたいな演技だった。

 

以下、思ったことを幾つか並べます。記憶違いもあるかも。

・幕開け、ピアノとヴィオラの音色が鳴って響く靴の音がリズムを刻む。
髪を刈られてダビデの星をコートにつけられた少年とも少女ともしれない人(パンフを見たら「少女」とあったので少女と以下表記)が軍隊の行進のような歩き方(でも引きつってる)でかっちり舞台を横切る。「アドルフに告ぐ」はこうして始まる。


・漫画と同じようにアドルフカミルの墓の前に峠草平が佇んでる。この舞台でも彼は語り手で、漫画と違うのは彼はもう既に死んだ存在、別の空間から誰かに語りかけているというところ。
峠が3人のアドルフの行く末を簡単に話すので、観客は彼等がどんな運命を辿るのか最初から分かった状態でこれからの出来事を覗くことになる。舞台の上に次々と登場人物が影のように現れて歌をうたう。
この人達は、みんな既にこの世には居なくて、物語は既に終わったんだろうなとこの時思った。すべてが終わったところからお話は始まる。

・長大な原作をどうやって3時間におさめるんだろう?と観る前は思ってたんだけど、お話は結構大胆に場面を省略して進む。補完的に原作読んでみて欲しい、と思うのはこの点かも。

・少年カウフマンは勇気をふるって毅然とした態度で大人に意思を伝えても、綿菓子を嬉しそうに頬張る年齢でドイツに連れて行かれる。最初の痛々しい場面、演出含めてすごく好き。

アセチレン・ランプはカウフマンが出会う様々な理不尽な現実の一つだった。
カウフマンから取った綿菓子を一口齧って胸ポケットに仕舞う仕草、うわ悪役だ…って感じで好き。友達であるカミルを憎みたくない、そんな素朴な心でカウフマンは入学を拒む。ランプが交換条件にした、ヒットラーの秘密を知った者の情報もカミルとの約束のため拒み、カウフマンは担ぎ上げられ連れて行かれる。
この時の表情、恐くて声があんまり出ない様子、すごく子供のそれでもう成河さんの演技の説得力にやられっぱなしになる。

・エリザにカウフマンが抱きつくところ、エリザが嫌そうな顔は浮かべないけど全身に緊張が走ってて気持ちは相手に無いのがちゃんと伝わってきた。乱暴されるシーン自体は無いんだけど、着衣が乱れて呆然と歩く様子で何があったか分かる省略具合で、逆に痛々しさが増していた。

・1幕目の最後、レストランで楽士の2人(ここだけは演奏を担当されてたヴィオラ・ピアノの方がそのまま役として提示されてて、舞台に上がっているものは全部装置・演出として含められてる感じで好きだった)が演奏するのに合わせて、峠と由季江がチークダンスを踊り、次に色んな男女(カミル&エリザ、三重子&芳男、ヒットラーエヴァ)が登場し、それぞれ踊る場面。
ここほんと数少ない癒やしで、それぞれの人達がそれぞれに合ったダンスを踊っててすごく素敵。姿勢とか戯れ方に年齢・属性・国籍の違いが出てた。特に三重子と芳男は、もうその場では退場している2人で、だからこそ「あったかもしれない時間」の切なさがあって、良かった…。
そしてその中にはカウフマンは居ない、軍服を着て冷たい顔で1人彼等の間を抜け、「少女」を1発の弾丸で殺し去って行く。初めて人を殺した時は3発使っていたのに、あっという間に変わっていってしまったのが分かり、場が凍りついた。
「少女」が「あなたの足元に埋まった骨を忘れないで下さい」と言い残すの、後の潜水艦シーンにつながる。

・拷問担当、赤羽警部、後半のお狂いになった様子(特にタバコの火をじゅってとこ)まじでもうやめて…となる。アクション場面全体、痛めつけられる側の演技が凄まじいので本当に当ててはいないのに本当に痛そうだ…。結構危ないアクションも多いから大楽日まで怪我がありませんように。

・芳男がパラソル持ってきたりお好み焼きを渡して三重子さんと2人で食べるシーン、本当に初々しい恋の場面なのにあっという間に失われちゃうのが切ない…。三重子さんに対して父親のような感情抱いてた峠が「きっとまた(大事な人が)見つかる」って言い切るとこ、峠って人は本当に意思強いね…ってシーン。

・本多大佐の「由季江さん、まことに失礼する」と言って口付けするシーン、原作の中でも好きだったやつなので無かったのちょっと残念だけど、代わりに峠に「お元気で」と言われてふっと笑う場面があって、あぁ~…となった。ああいう細かいところで人物像説明すんの好き。

・成河さん、電話かけたり独白したり誰かその場に居ない人に語りかけるとこ、特に良すぎた。時々唇の色が真っ青で心配になるレベル。

・舞台装置によく布が使われてて、砂漠を表したり粛清シーンで影の演出に使われてたり、ヒットラーが死ぬ場面で床にでかいナチスの旗が敷かれていたり目に鮮やかなものばかり。

・音楽が全体的に説得力を増すものばかり。ヴィオラとピアノだけなのにこんなに色んな使い方あるんだな…と感動した。時々、人の声にも思える響きを出してた。神奈川芸術劇場の音響もすんごい良い。

 

・ラスト、2人のアドルフのうち1人が倒れ、1人は背中を向けたまま、最初の場面と同じく少女が行進してくる。
ここで彼女の格好がパレスチナにあわせたものになってたので、あの子はユダヤ人全体の象徴で、一個人ではないのかな…と思った。
少女役の小此木まりさんの歌声はいつも切実で、ずっと張り詰めていて、凄味としか書けないものを伝えてくる。
最初と同じく、舞台にそれまでの人物が出てきて一緒に歌い、峠が最初をなぞるように語る。
でも最後は「アドルフの子」という言葉が突然出てくる。
少女も「わたしはアドルフの子」と語る。
全部が終わり、幕が下りる頃、ヘリコプターの爆音が客席の後方に向かって去っていく。
ここで今まで目撃者だった観客にもあなた方も現実に居る以上、当事者なんだよ、と示された気持ちになって胸が苦しくていっぱいになった。

・カーテンコール、みんな真剣な顔でお辞儀していた。
成河さんはちょっと緩んだ表情をやっと見せてくれて、口の形が「ありがとうございました」と何度も言っててすげーそういう感じ、もう好きだ…。松下くんは仕草(手を軽く握りながら合わせて感謝を示す感じ)でお礼を言ってて、こちらこそありがとう…という気持ちになって帰りました。

・カウフマンが撒くビラの1枚がすぐ近くに落ちてきたので、終演後拾って舞台上に戻したんだけど、日本語+手書きで書かれてたよ。

・ラストが原作と変わってる、という意見は後で知ったのだけどカミルとカウフマンの最後の決闘についてちょっと書き足し。
私は上手よりの席だったのでカミルのほうが近い位置に居たためか、2人が左右に分かれて撃ち合った後、窪みに隠れて体勢を整えるシーンは結構カミルを見てたと思う。
この時にカウフマンが話しながら弾倉を外して、入れ替えようとしてるのかなって仕草をするのが見えた。
その後にまた銃を向け合った時、カミルは撃つけどカウフマンは引き金に指をかけるけど明らかに引いてない様に見えた。
カウフマンが死に、カミルは撃たれなかったことに驚いた顔をして、カウフマンの銃を拾う。
観終わった後、他の方の話を聞くと、この時にカミルが「お前…」という顔をして倒れたカウフマンの顔を見るのは、拾った銃に弾倉が入ってないことが分かったから(=カウフマンは弾倉を抜いていた・ぎりぎりのところで撃たない方を選んだ)ということが分かり、愕然とした。

すごく細かくも大事な演技を見逃してしまったのかな……と悲しくもあり悔しくもあった。


 カウフマンが殺さないことを選択したことが示されることで、考えれば考えるほどよりきつい…(でもそれが嫌というわけじゃない…)って気持ちになる。
HPでも手塚治虫の言葉「これは本当は恋愛物じゃないかと思うんです」、が引用されていたけど、カミルに対するカウフマンの選択は愛だったんだろうか(恋愛、という意味よりももう少し広い意味での愛かもしれない)。

 舞台版だと、カウフマンの妻子が戦闘に巻き込まれて亡くなる描写は削除されているので、カウフマン側の、カミルを積極的に殺したいという意思は確かに弱くなっているのだろうけど、原作では最後まで憎みあって、分かり合えないまま終わる2人が、舞台では片方の愛はすべてがおしまいになるまで相手に見えないで終わるから、余計にきつい。

 

・私が観た時、ヒットラーとカウフマンが顔を合わせる場面で、成河さんか髙橋さんの衣装からペンが落ちた。その時、髙橋さんが演技続けながらさり気なくそれを拾って「これはなんだね?」と訊き、成河さんが「お持ちします」って返してペンを回収し、事なきを得た場面があって、こういう不測の事態にさらりと対応するのが観られるの、舞台ならではだなぁと思って興奮しました。

 

・以前、役者には「現れる」のが上手い人、「立ち去る」のが上手い人、「そこに居ること」が上手い人がいるんじゃないかと書いたことがあるんだけど松下さんは「居ること」が、鶴見さんは「立ち去る」のが、成河さんと高橋さんは「現れる」のが上手だなと思った。